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港市・長崎の形成と展開

Town Formation and Development process of the NAGASAKI as a typical Port-City

港市としての長崎
四周を海に囲まれ、内海や海峡と湖沼および河川に富むわが国には、大小数多の港町がある。だがこれらの大半は漁港・漁村から展開したもので、交通・交易を主とする港湾を基盤として発達した都市となると限られてくる。
 後者は「港市(Pore City)と呼ばれるが、なかでも国際的な貿易港で、かつ中世末以来、現在まで継続するものとしては、長崎をおいて他に求めがたい。この意味で長崎はわが国を代表する港市といってよいが、ここではこの都市の形成から第二次大戦までの歴史的変遷を簡略に辿っておくことにする。

開港と町建て
いわゆる大航海時代の波が極東の日本に及んできたのは、16世紀中葉のことであった。これは貿易面だけで見れば、すでに形成されていた東アジア地域における海上交易の担い手にポルトガルを中心としたヨーロッパ勢が加わったにすぎないが、このポルトガル勢力にはキリス卜教の布教という本来別次元の意図が随伴していたため、戦国期という時代背景と絡み合って一層複雑な様相を呈した。がしかし次第にイエズス会が主導した宣教と南蛮貿易の拠点は、九州北西部に収斂した。平戸、横瀬浦を経て、ここに長崎が登場してくる。
 その近郊には長崎氏や深堀氏といった地頭的勢力が割拠し、前者の城下にはすでに教会堂も建てられていたが、深く湾入したこの浦所そのものを天然の良港として発見したのは、近郊の福田に転移していたイエズス会土であったと彼らは記す(フロイス『日本史』)。ともあれ元亀元年(1570)の開港である。
 翌元亀2年には、この地の領主で最初のキリシタン大名だった大村純忠が家臣・友永対馬守を派遣して町割をなし、長崎湾に突き出た岬の上に大村・島原・平戸・横瀬浦・外浦・文知という地名を冠した6ケ町を建てた。しかし、地元の地誌類に拠るこの町建て通説には、若干の疑問がないではない。その主要点は以下の3項目である。
 ①日本側の記録には出ないが、この岬の先端つまり上の6ケ町のさらに海側には、当初から教会を中心とするイエズス会の修院が建造されていた(ヴアリニャーノ『日本巡察記』)。しかもそこは聖域であるにとどまらず、イエズス会士が通商を仲介または代理する「生糸の取引所」でもあった(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』)。とすれば、6ケ町は聖域=市場の前方に展開した門前町に、あるいはその総体を寺内町に比定することもできよう。そして、この全体の様子がすでに指摘されるように、ぺルシャ湾口にポルトガル人が建設したホルムズに類似することからすれば、その町建て計画、少なくとも形成方針の主体をポルトガル側に帰すこともあながち否定できない。
 ②町建て当初の町は上の6ケ町に限定されていたかが疑問視される。地誌類にも散見されるように、その外側にあってのちの内町を構成する町のいくつかはほぼ同時に成立していた可能性がある。とりわけ高台の町々の崖下にあって、港湾に直面して列なる樺島・五島・舟津の3町は、港市として不可欠な水夫(カコ)町として当初から築造されていたのではないかと考えられる。
 ③既往説ではすべて高台をなす岬の南側は遠浅の入江が深く入り込んでいたと解するが、これははなはだ疑わしい。のちにこの地域には、中島川 の両岸に外町が形成されるが、その順序は河口部が先行していたこと、しかもその中心街となる浜町はまさにそこが浜辺であったことを示すからだ。
 こうした私見を加味して町建て当初の長崎の都市構造を示したのが図1である。長崎港に突き出た岬の先端部分に聖域と門前町が形成され、自然地形と相まってこの全体が要塞状の構えをなす。その町から発する陸路は未整備で、むしろ海の道が交通の主動線を担っていたと考えられる。

発展成長と近世都市への変質
以後長崎は急速に発展していくが、その主要な動向を摘記しておく。
 天正8(1580)年に領主大村氏は長崎と茂木をイエズス会に寄進したが、九州平定を終えた秀吉は同15(1587)年伴天連追放令を発し、翌16年には長崎を直轄領に改め、文禄元年(1592)に奉行を下命した。これに伴い奉行所が6ケ町の外側、すでに市街地が拡大していたその真ん中に設立された。同時に、港湾に面しては岬の先端にある聖域の膝下に大波止を定め、そこに番所を設置した。これによって長崎の町は、市街・港湾とも奉行が代行支配する城下町的な様態へと変質したのである。
 しかし、地子銀は免除したように貿易はむしろ推奨するところだったから、人々の流入は増加し、慶長2(1597)年から内町周辺の田畑等に外町が造成され始めた。これは約20年後の元和初年までに40町にも達したという。
 徳川幕府は長崎を公領とすることを引き継いだが、慶長17(1612)年にキリシタン禁教令を発し、同19年には市中に林立していた教会群を破却した。確実な史料に基づく長崎市中の寺社の創建は、すべてこれ以降であることが留意されねばならない。
 慶長9(1604)年に成立した糸割府制度に基づく各地宿老たちの会所が、破却された岬の教会跡に新設されたのも同じく慶長19年であった。この場所は教会建設以前に森崎権現があったという伝承もあるが、事実はむしろ逆で、教会の跡地にまずこれを建て、その境内に会所を設置したと見るべきであろう。しかし、寛永10(1633)年に奉行所からの出火が会所に及ぶと、ただちに両者を換地して奉行所を岬の先端に据えた。長崎の港湾内と市街地の全体を掌握支配する中核としてだろう。
 その翌年から奉行所の真下の海中に出島の築造を始め、寛永13(1636)年に完成するとそこにポルトガル人たちを閉じ込めたのも、寛永元年創建の諏訪社にキリシタン禁制の機能を持つ祭礼(くんち)を創始したのが同11年または12年だったのも、すべて一連の動きだとみられる。同16年にはポルトガル人の来航を禁止したため、出島は一時空き家となるが、島原の乱を経た同18(1641)年には、平戸にあったオランダ商館の取壊しと出島への移転を命じた。これによって禁教・鎖国政策を進めた幕府が直轄する唯一の港市が完成し、長崎はそれにふさわしい近世都市へと変貌を遂げたのであった。
 翌寛永19年には市街地の南隅に丸山・寄合両町の遊郭が設立されたが、これもこの時点での近世都市としての長崎の成立を裏付けよう。この当時の都市構造を示したのが図2である。海路に加えて、陸路が充実し、なかでの江戸へと通じる長崎街道が奉行所から発しているのが象徴的である。

近世都市としての成熟と停滞
上には中国との交流について言及しなかったが、貿易の量ではいつもこれが凌駕していた。文物の流入も盛んであったが、都市景観に影響を及ぼした点では、唐寺の建設はこの町に異国情緒を与えていた。加えて、市中の川筋には中国色豊かな廊橋群が形成されていたが、これが長崎最初の大洪水たる正保4(1647)年の水害後、翌慶安元年に重修された眼鏡橋を嚆矢として、以後17世紀末にかけて市中の橋梁群を石造アーチ式に転換し、増補していたことも見逃せない。平均80m間隔で十数基が並ぶ中島川石橋群は、世界で最も濃密なものだったと言えよう。
 これらの過半は長崎に在留した唐人や中国船主たちが寄進したのだが、元禄元年(1688)~同2年には来航する中国人を隔離するための唐人屋敷を町外れに新設し、続いて同15(1702)年には彼らの荷物を収監する新地蔵所を地先の海中に築造した。この元禄ごろが近世長崎の最盛期で、人口も6万4千余を数えたが、以後は次第に停滞衰微し、新規の都市建設も途絶えた。

近代都市への変容と発展
幕末の開国によって長崎はその特権的地位を喪失したが、新たな開港都市のひとつに選定されたため、再び港市として活発化した。市街地南郊の大浦地区一帯には、西洋式の街区計画と土木技術に基づく外国人居留地が出現した。またこれの対岸地区には安政4(1857)年から鎔鉄所(のち製鉄所、造船所となる)の建設が始まり、工業が導入された。
 この洋式化と工業化を両輪として長崎は近代都市へと発展していった。明治中期以降は、貿易港としての地位は大都市を控えた神戸・横浜に奪われていくが、大陸に近い地の利と航海燃料の石炭補給港として命脈を保った。これにともなう港湾整備がすすめられ、出島地先や浦上川河口部での埋め立てによって臨海部の平地が拡大したが、出島や新地は市街地の中に埋没する結果となった。一方、人口も増え続け、第1回国勢調査たる大正9(1920)年の統計では全国で第7位、九州ではダントツ1位を誇る重要都市となっていた。大正期からは北郊の浦上方面に市街地が拡張し、昭和に入るとそこに三菱の工場群が進出した。

 原爆はここに投下されたのである。

※『建築雑誌』発行:日本建築学会vol.127No,1635 2012年8月号 特集:広島[ヒロシマ] ・長崎[ナガサキ] 22-23pより転載

林一馬 kazuma Hayashi
長崎総合科学大学環境・建築学部教授/ 1943年生まれ。京都大学工学部建築学科卒業。同大学大学院博士課程修了。博士(工学)。建築意匠・建築史建築論。著舎に『伊勢神宮・大嘗宮建築史論』『長崎の教会堂』ほか。2002年日本建築学会賞(論文)受賞

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町建て当初1570年代の長崎の都市構造 近世都市成立時1640年代の長崎の都市構造

投稿者

長崎都市遺産研究会
長崎都市遺産研究会

長崎都市遺産研究会は、都市の中で埋もれていたり、解体されようとしている貴重な建築遺産を発掘、保全し、次世代に継承するための支援活動を行う市民団体です。

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