長崎とナガサキ、隠れキリシタンの末裔から戦後の復興へ/出典:『建築雑誌』

※『建築雑誌』発行:日本建築学会vol.127No,1635 2012年8月号 特集:広島[ヒロシマ] ・長崎[ナガサキ] 26-28pより転載
インタビュー Interview
motoshima話し手:本島等 Hitoshi Motoshima
1922年長崎県南松浦郡生まれ。京都大学工学部土木工学科卒業。学校教員などを経て1959年より5期20年、長崎県議会議員を務める。1979年より4期16年、長崎市長を務める。著作に『ゆるす思想ゆるさぬ思想』『長崎市長のことば』ほか
聞き手:初田香成/Kosei Hatsuda  東京大学大学院助教・会誌編集委員/砂本文彦/Fumihiko Sunamoto 広島国際大学准教授・会誌編集委員/青井哲人/Akihito Aoi 明治大学准教授・会誌編集委員長

図1・2

図1:江袋教会。長崎県南松浦郡新上五島町にある木造教会堂。1882年にブレル神父の指導と援助で建てられた。2007年の焼損により全国から支援を受けて復元工事が進められ、2010年に完成。写真は修理後の内外観
[撮影:山田由香里]

五島に生まれて
初田:本日は五島で過した子ども時代の話から、終戦後の長崎の様子、県会議員や市長として働いたころまで、年代順にお話を伺いたいと考えています。まずは、五島列島の一番北、中通島にある江袋という隠れキリシタンの集落に生まれ育ったという、子ども時代のことをお話ください。

本島:私は私生児、つまり罪の子として生まれてきたわけです。母はカトリックの教理や生活規範を集落の物や子どもたちに伝える「教え方」をしていました。父は異教徒でした。江袋の隣の隣にある集落に暮らし、小舟を操って商売をしていました。両親の間柄は小さな集落では許されないもので、父は集落の人々に追われるようにして対馬に移住し、母は教え方を辞めさせられ、生後11カ月の私を集落に置いて黒島という佐世保の小さな島に嫁入りすることになりました。ところが“罪の子”である私に、どういうわけかビッグネームの洗礼名が付きました。洗礼名はイグナチオ・ロヨラ。イエズス会の創設者で、フランシスコ・ザビエルの師匠格の大聖人です。罪の子として生まれた私を、おそらく祖父母が神父様に頼んで神の子にしようとしたんです。私が赤ん坊のころ、ばあさんは繰り返し、同じことを私に語りかけていた。小学校の3、4年になると内容がわかってきた。「人、全世界を儲くとも己が生命を損ぜば何の益あらん」という旧約聖書のマタイ伝16章26節。祖母は熱心なクリスチャンで、罪の子を神の子にしようと赤ん坊に説教をしていたのです。
 うちのじいさんは、10歳のときに隠れキリシタンの弾圧で、拷問を受けたため、足を引きずっていました。豊臣秀吉の禁教令にはじまる迫害の歴史を背負い、生活は食うや食わずだったんです。集落は、山が海に対して急激にせまる傾斜の強い山肌に30戸ほどの農家がへばりついているところです。道は狭く、電気や水道が通るのも遅かった。集落にある江袋教会(図1・2)だけは立派で、五島でも一番古い由緒ある教会でした。私が洗礼を受けたのもここでした。五島のクリスチャンの集落には漁業権が与えられていませんでした。だから、大人になるまで刺身は食べられませんでした。悔しかったね。

砂本:土地は痩せていて、サツマイモばかりを食べていたと『ゆるす思想 ゆるさぬ思想』にも書いてありました。

本島:子どものころは蒸したイモをタオルに包んで弁当にしていました。冷たくなるとねちゃねちゃする。質の悪いイモでした。小学校は全校生徒120ほとんどがキリスト教徒という珍しい学校でしたが、次に進学した小学校高等科では、キリスト教徒は2割ほどになり、環境が変わりました。キリスト教徒の子どもは貧しさゆえに着の身着のままで、ヨゴレとかクロ、ヤソ、アーメンソーメンと呼ばれて馬鹿にされました。

砂本:戦争で軍隊に入っていたときの印象的なエピソードを教えてください。

本島:兵隊に取られたのは21歳のときです。旧制佐賀高校を2年で卒業扱いになり、昭和19年4月に入隊しました。旧制佐賀高校に進学した際、自分自身は文系志望だったのですが、母の勧めで理科に進みました。そのため文系の学生より兵隊に行くのが1年遅れたのです。もし早く戦場に行っていたら、前線に送られ戦死していたかもしれません。
 入隊先は、砲兵部隊でした。当時はビルマに日本の軍隊が19万人いて、そのほとんどは九州の兵隊でした。しかし、輸送中の五島沖、沖縄沖、台湾沖で潜水艦にやられてほとんど死んでしまうので、あきらめたのでしょう。おかげで前線に送られることなく済みました。


長崎市長になる
砂本:戦争が終わったあと、京都大学工学部土木工学科に進学されたのはなぜでしょうか。

本島:小学校高等科を卒業後、夜間中学に進学し、学業の傍らでさまざまな仕事を体験しました。でも学校に通うこともままならない過酷な労働で無理がたたり、2年のころ黄疸が出てしまい、仕事を辞めて故郷に帰ったんです。それからですね。勉強をしないと生活苦から逃れられないと痛感したのは。それで旧制高校に進み、戦争が終わって軍隊から帰ってきてからは大学に進学したのです。戦後すぐの旧制大学は、定員を確保するために、できるだけ学生を入れることになっていたので、すんなりと入れました。無茶苦茶な時代だったのです。

砂本:土木の勉強は、面白かったですか?

本島:あまり面白くなかったな。学科も勧められるままに選んだものだから、土木工学には関心がわかずに、入学してからは学生運動に打ち込んでいました。最初の一学期なんて、午前中に授業を出たことはなかったな。
 卒業後、京都カトリック学生連盟での活動を通じて知り合った、同じ五島出身の浜口庄八神父の紹介で、長崎市内の東陵中学・高校で教師をすることになりました。2年働いたころ、学校が南山学園に併合されたのを機に辞めて、その後カトリックセンターで知り合った、上五島の若松島出身で遠縁にあたる白浜仁吉衆院議員に誘われて秘書をすることになりました。白浜のもとで3年半過し、政治家の心得を学びました。
 秘書は一生の仕事ではないと感じ、長崎の定時制高校で再び教師をしていました。しかし、政界への思いが募り、1959年の県議選に37歳で立候補したんです。無所属の草の根選挙で、当選しました。市長選には1979年に初めて立候補して当選し、市長を4期16年務めました。

市制に影響を及ぼしたカトリックの思想

図3-5

浦上天主堂。キリスト教の伝来当時よりカトリック信者が多く、たびたび弾圧も行われた浦上に東洋一の聖堂を目指して1895年に起工。1914年に竣工し、1925年に双搭が完成した。しかし、原爆で厳しい破壊を受け、1958年に取り壊しおよび一部の移築が決定された[撮影:砂本文彦]
図3(左):現在の浦上天主堂。鉄筋コンクリート造、鉄川工務店の設計施工で1958年着工、翌年竣工。1980年の改修工事で赤レンガの外観になる
図4(中):浦上天主堂の廃墟の一部。1958年に平和公園内に移設保存された遺構
図5(右):原爆で吹き飛ばされた天主堂左搭鐘楼の一部。川を整備して流れをずらし、小川の中に落下したものを石垣の中に保存している























初田:
戦後の長崎をご覧になって、印象深い街や建物の様子には、どういったものがおありでしょうか。

本島:そりゃ、教会だよ。浦上天主堂(図3-5)のことは長崎の夜間中学に通っていたころ、いつも見ていました。きれいなんだよな。ところが軍隊から帰ってきたら、原爆で廃墟と化していた。死の町という言葉が浮かぶほど、道も家も壊れてしまって、長崎大学の大きな煙突も曲がっていた。三菱重工の製鋼所にはグシャグシャに鉄が転がっていた。浦上天主堂はその後、僕が県会議員になるかならないかの時期まで、残す、残さないの問題で揺れていました。
 建物を残さずに建て替えることに決まったのは、1951年から1967年まで4期16年市長を務めた田川務による、1958年2月の答弁においてでした。カトリック信者は被爆の象徴として建物を残すことよりも一日も早い天主堂の復興を望んでいましたが、お金がないなかで代替地を用意することは難しい。名市長だった田川さんでさえも、実のところは浦上を持て余していたようでした。私が県会議員になったころ、ともに復興が進む浦上の視察に出向いた際、田川さんに「浦上の復興は難しい。俺はクリスチャンではないからわからない。浦上が市として独立してほしい。そのときは本島さんが市長になってくれ」と言われたこともあります。

初田:五島で過したころの貧しさや、カトリックの教理は、市長としての姿勢にどう影響されましたか。

本島:弱いもの、貧しいものを救済する立場を一貫して取ってきました。これには厳しいカトリック教育を受けたことと、子どものころに差別を受けながら育った悔しさからの影響は大きいと思います。私が天皇の戦争責任(注1)があると言ったことにも、背景には神の元に人間はみな平等というカトリックの思想があります。戦争で私が属した軍隊は、皇軍という天皇の軍隊でした。戦争責任は私たち一人ひとりにあるのです。私自身にもあります。戦争責任を天皇おひとり、あるいは軍部とか誰かに押し付けてすまそうと考えたことはありません。


人間は、幸せ満点でいけるものではない
砂本:1992年、平和公園に地下駐車場をつくる工事で、長崎浦上刑務支所の遺構が発掘されました。このとき市長としての決断が求められたかと思いますが、どう思われましたか。

本島:残しても、残さなくてもどっちでもいいと。残すかどうか、いろんな意見が出ました。しかし、戦争にはさまざまな問題が絡み合っているのに、被爆遺構ばかりを残すべきなのか。すべてを失うのはよくないけれど、被爆地だからといって原爆を強調しすぎるのは一面的ではないかと思うのです。

砂本:平和は都市のなかで記念碑として残すよりも、人と人との思いやりとして残すものであると。

本島:人間は、公的にも私的にも、大きくも小さくも、幸せ満点でいけるものではないぞと言いいんです。絶対に正しいものなんてない。全面的に平和で正義というものを求めても仕方がない。平和とかそういうものは、大上段に構えたところではなく、もっと混沌としたなかに光を見出すというものなのではないかな。今、長崎の教会群を世界遺産として登録しようという動きがあります。うれしい話ではあるのですが、昔は嫌われ者のカトリックを象徴するものでした。教会なんて踏み荒らされ、虐げられていたものです。でも絶対的に正しい存在として扱われるよりも、そんな扱いをされているものの方が世界遺産にふさわしい気もします。
 私は大学時代『長崎の鐘』の著者、永井隆(注2)に一度だけお会いしたことがあります。永井さんの思想は「原爆が落ちたのは神の恵み、浦上は神に感謝しなくてはならない」というものです。十字架を背負い、運命に従えというイエス・キリストの思想に由来しています。その思想はやがて、長崎総合科学大学の鎌田定夫教授をはじめとする平和思想家たちから原爆被害の受認につながると、ひどく非難されるようになりました。しかし、永井さんはカトリックの信者として発言しただけで、原爆を容認したわけではありません。神が与えた苦しさや貧しさも受け入れていくという、一段上の思想を示しただけでした。誰もが受け入れがたいことも受け入れていくというのが、人間の究極の生き方なのではないかと思うのです。

砂本:受け入れ方という意味では、本島さんは1997年に原爆ドームが世界遺産に登録される、という報を受けて「広島よ、おごるなかれ」というタイトルの論文(注3)を書かれ、広島における原爆の受け入れ方に対する疑問点を指摘されていました。

本島:あれも有名になっちゃったね。勝ち負けとか、幸せと不幸というように、何かを断定するのはよくないと思うのです。

青井:本島さんは、特定の遺構や記念碑に過去の災過を象徴させるというあり方には賛成はできないというお考えをお持ちなのでしょうか。

本島:でも、歳を取るにつれて、そういうものも必要なのかなと思うようになりました。教会群を世界遺産にする、という話を聞いたときは「コンチクショウ」と思っていたけど、そうしないと教育的効果もあがらないし、時代が変わっても思い出として残せるものが必要なのではないかと思うようにも変わってきました。
 いずれにしても、物事はどちらとははっきり言えないもの。建築だって善し悪しがあって、なんでこんなものを建てたのか、というものも存在する。浦上天主堂は完全に失われたのではなく、原爆を受けて壊れて落ちた鐘楼の一部が、崖の下に残されていたりもする。政治も平和も、建築も、波の谷間に浮かべながら、浮き沈みしながらずっと考えていくというのが大事なんだろうなと思います。結論は出ないけど、やっぱりこう、考えることは永久に続くということが結論になるのかな。

2012年5月3日、長崎市・井原東洋一事務所にて
文:平塚桂
※本稿は長崎市議会議員・井原東洋一氏、本島氏ご親族の随行のもとになされたインタビューをもとに、一部を参考資料で補いながらまとめている。


1.1988年12月7日、長崎市議会での昭和天皇の戦争責任に関する意見を求める質問に対し、長崎市長三期目の任期中だった本島は「天皇の戦争責任はあると思う」と発言。発言を撤回しなかったため自民党長崎県連から県連顧問を解任される。併せて多くの右翼団体から大々的な抗議を受けた。さらに天皇崩御から1年を経た1990年1月18日、右翼団体幹部から銃撃されるという「長崎市長銃撃事件」が発生。本島の左胸部を弾丸が貫通したが、心臓や大動脈を外れたため本島は一命を取り留めた。

2.ながい・たかし。明治41(1908)年2月3日~昭和26(1951)年5月1日。26歳でカトリックの洗礼を受ける。放射線医療研究活動の影響で白血病にかかり昭和20(1945)年6月、余命3年と診断される。8月、爆心地から700mの長崎医大の診察室で被爆し、重傷を負うも多くの救護活動にあたる。病床についた後も、長崎の復興と平和への願いを込め執筆活動。『長崎の鐘』を皮切りに4年で13冊の著作を残す。

3.1997年、原爆ドームの世界遺産登録をきっかけに書いた論文。広島平和教育研究所の年報に掲載。「侵略や加害があったのに、ドームには反省や謝罪は反映されていない」「日本は、米中と対立してまで(原爆ドームを世界遺産に)登録した」と、原爆ドームの世界遺産登録に対する広島および日本の姿勢について痛烈な問題提起をしている。

投稿者

長崎都市遺産研究会
長崎都市遺産研究会

長崎都市遺産研究会は、都市の中で埋もれていたり、解体されようとしている貴重な建築遺産を発掘、保全し、次世代に継承するための支援活動を行う市民団体です。

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