昭和期に活躍した建築家 武基雄(1910~2005年)

ながさき・さが新偉人紀行30昭和期に活躍した建築家武基雄

 

 平和は長崎からー。壊滅的な被害を受けた長崎原爆からの復興を願い、国は1949年、「長崎国際文化都市建設法」を制定した。長崎市で55年に長崎国際文化センター建設委員会が発足し、官民一体の建設計画が始動。国内外から多くの募金が寄せられ、長崎水族館、県立長崎図書館、長崎国際体育館、網場県営プール、市公会堂、県立美術博物館の6施設が整備されていくことになる。このうち市公会堂と長崎水族館の設計を担ったのが、長崎市出身の建築家、武基雄だ。

 10(明治43)年、磨屋町(当時)に生まれた。「建築家・人と作品」(川添登著、井上書院)は武を「自由の気と協働の精神を忘れない、永遠の建築育年」と称し、武が長崎で過ごした少年時代のエピソードを紹介している。

 それによると、武が造形に興味を抱くようになったのは、中学生のころ、婦人雑誌の〝押し入れ改修案〟に母親の名前で応募し、アイデアが評価され、「当選」したことがきっかけだった。医師の家庭だったが、住宅設計に関心があった父親は建築家の道を勧めてくれた。早稲田大建築学科で学び、都内の建築事務所に就職。上海支店などを経て、母校の大学院に進んだ。教授、名誉教授として、戦後の建築教育の中核を担う。学生とは教師としてというより、志を同じくする仲間として接した。自分の考えを押しつけては育つ才能も育たないー。そんな信念からだったという。

 長崎国際文化センター事業で武が手掛けた2施設のうち、魚の町の市公会堂(62年)は、大架構を用いて左右対称に構成された外観、正方形の四隅を切って八角形としている客席などが特徴だ。長崎市の建築家、中村享一氏(64)は「派手さはないが、骨格がちゃんとしてる。厚みと芯があり、それでいて細部への配慮が抜きんでている」と評する。2003年、近代建築の保存を目的とする国際学術組織の「近代日本の建築100選」に選定されたが、多くの市民が文化に親しみ、成人式など人生の節目を刻んできた建造物は今春、老朽化などを理由に、その歴史に幕を下ろした。

もう一つの宿町の長崎水族館(1959年)も98年に閉館。だが、古里と平和を愛した武の代表作はこれだけではない。松山町の平和公園内に69年に完成した「平和の泉」。「のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくてとうとうあぶらの浮いたまま飲みました」の碑文が人目を引く。当時9歳だった女児の被爆体験だ。被爆した子どもたちの手記から武自身が選んだ。

 「現代日本建築家全集5」(栗田勇著、三一書房)の中で、武は「誰に教えられなくとも、おのずから人が敬虔(けいけん)な気持ちになる作品」と振り返っている。そして、「平和の泉」の設計に込めた思いをこう語っている。「人々が、熱かっただろう、かわいそうに・・・と言いながら(碑に)水をかけているんです。ただの噴水であれば、見せ物ですから。それを眺めて、きれいだ、きれいだと言いますけれど、それよりも自分で水をかける参加のほうが、有意義だという気がしましたね」

 穏やかな春の昼下がり。円形の泉の周りには、カメラを手に笑顔で写真に納まる観光客や、手を合わせて祈りをささげる人、散歩を楽しむ市民が行き交う。

(文・嶋田嘉子、写真・田中英樹) 長崎新聞2015年4月20日(月) 11面より転載

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